せとないかい
「中原さんってさ」
知り合いの中で、僕のことを中原さんって呼ぶ人は少ない。よっぽど距離を取りたい人か、いい意味でビジネス的な付き合いをしてくれる人かのいずれかだ。
自分ルールがある人は少なくない。細川さんは、自分ルールがいっぱいある人だ。ここまではやる、ここからはやらない、そういう線引きを綺麗に引いている人だ。そういう風にしっかり律して行動ができる人を、大人と呼ぶのだろう。
僕は先に行動してしまうタイプなので、自分が決めていたルールを破ることは多い。行動の一貫性は、後から決めていく。だから矛盾した行動も、なんとなく後でまとまっていく。しかしそれでいいとも思っている。
「中原さんって、そういうフシがあるよね」
「そうすね」
「よし、フシがある選手権しよう」
「ちょっと言っている意味がよくわからない」
「中原さんってそうやってすぐわからないって言うフシがあるよね」
「え?…あ、そういうことか」
「物分かりいいやん」
「ちょっと今僕運転中なんで、後にしてもらっていいですか?」
「そうやって都合つけて逃げるフシがあるよな」
「ちょっと駐車場探します」
細川さんとのやりとりは、たぶん低く見積もって8割くらいが意味のない会話をしている。過言ではない。残りの2割は、仕事のことでアドバイスもらったり気づきをもらったりしているから良しとする。
「今日の夜なに食べる?」
「そうすねー、なんでもいいですけど」
「すぐこっちに意見委ねてくるやん、付き合って3年目くらいの彼女の如く」
「すみません。特になくて。じゃあちょっと行ったことないとこに行きましょう!せっかくなんで」
「お、今度はぐいぐい行くやん、付き合いたての彼女の如く」
「なんすか、その、なんとかの如くって。あと一貫して僕を彼女で例えるのやめて」
「うん、セトウツミって漫画知ってる?」
「せとうつみ?ですか?」
「高校生の瀬戸くんと内海くんが、河原でダラダラ喋る漫画なんだけど」
「ちょーつまんなそうですね」
「いや!シュールさが良いのよ。そう、まるで若き日のダリの如く」
「極みやないか」
「そのやりとりが面白くて」
「その、なんとかの如く、ってのが、漫画の中であるんですかね」
「そう。そのやりとりがとても知的でシュールで楽しいから、ぜひ中原さんにも読んでもらいたくて」
細川さんはそう言って、セトウツミの1から4巻までをスーツケースの中からいそいそと出してもってきた。準備いいな。どんな気持ちでスーツケースに荷物詰めてたんだ。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00KQJHWWO/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
「この主人公の内海くんに似てるんだよね、中原さん」
「へぇ、どんなところが?」
「ちょっと知的で無慈悲で生意気で冷たいところ」
「ネガティヴ要素の方が多くないすか」
「ほら、ネガティヴって言うやん。ネガティブなんだよ、日本人の発音は」
「いや、ほら、そこはいいじゃないすか」
「うっつみんもそんな感じなんだよ、あと、器用貧乏だし」
「まだ読んでないのにすごく共感しますわ。あと、急に主人公に親しみ込めますやん」
「成績優秀だしイケメンだし才能もいろいろあるし」
「ちょっと、照れますね」
「自惚れるな」
「アメ渡しながらムチ振るうやん」
「そういえば、そろそろまた地方に行きたいな。あんまり遠いとこ行けないけど、近場で行けそうなとこない?」
「んー、ダイウーとかっすね」
「イオンが買収したスーパー?」
「ダイエーではない。そうだとしてもそこ行きたいですか」
「ミャンマーにあるなら行ってみたいな」
「イオングループは、ミャンマーのローカル会社のオレンジってところと一緒に小売やってますけどね」
「本当にあんのか」
「じゃあ、明日ダイウー行きましょう。そこでちょうど営業もしたかったし」
「決めるの早いな。デートの行き先で悩みたくない彼氏の如く」
「あ、明日予定あったんだ。まぁいいや、そっちはキャンセルしよ」
「覆していくやん。友達の予定を優先して彼女を蔑ろにする彼氏の如く」
「今度は彼氏かい!」
僕らはKindleで続きの5巻から8巻まで買い終えてから、ダイウーに向かった。ダイウーは、ヤンゴンからだと2時間くらいかかる。その手前に、パヤージーという地域があるが、そこには、モーヨンジー湿地がある。
モーヨンジー湿地については、昔のブログで書いてたから、そっちを参照にしてもらえれば、と。
ダイウーは、この湿地から30分ほど北に向かう。米の生産が盛んな地域で、周辺にはゾウに乗れる村がある。ゾウに乗れるという体験は、ミャンマー国内でも少しずつ増えてきた。
ヤンゴンから5時間圏内に、僕が知っているだけでも5箇所ある。外国人へのコンテンツとしてはまだまだ弱い気はするが、生活環境を壊すことなく、活かしていってほしいところ。
「中原さん」
「はい」
「仕事、よろしくお願いしますね。営業だけではなく、お金の回収が大事になってくるから」
「そうですね」
「そして私を養ってください」
「スネすごい齧るやん」
「私の家族を養ってください」
「まるごとセットやん」
「そして島を買うんだ」
「お」
「瀬戸内海の島を」
「風呂敷大きく広げた後、隅っこに座るフシがあるやん」
ピーチボーイズ 第1話
どんぶらこ、という言葉は、日本人なら全ての人が知っていて、全ての人が一つの意味を思い浮かべることができるだろう。しかも、その5文字で、大きな桃が川上から流れてくるときのオノマトペ、を表すときたものだ。大きな桃ってなんだ、とか、どんな擬音語だよ、などと、誰もそこに疑問は持たないし、「どんぶらこ」はもう「どんぶらこ」以外の何者でもないのだ。どんぶらこ、という言葉とその意味を感覚的に共有している僕たち日本人は、すごい。
他の国でも、文化的な背景から幅を持って意味を包含する言葉がある。水面に映った道のように見える月明かりのことを、スウェーデン語で、「モーンガータ」と表現する。愛する人の髪にそっと指を通す仕草のことを、ポルトガル語で「カフネ」と表現する。鳥の朝一番の鳴き声を聞くために早く起きることを、同じくスウェーデン語で「ヤーコータ」と表現する。こんな言葉をさらっと言えるようになれたら格好いいんじゃない?もっと知りたい人は、「翻訳できない世界の言葉」でも買えばいいんじゃない。
日本語としても、「侘び寂び」「木漏れ日」「幽玄」などと包括的に意味をいろいろと含んだ美しい表現が、実は多かったりするが、最近使用される「ヤバみ」「良き」「やばたにえん」など、新しい文化的な背景から使用され始めた言葉もまたをかし。
さて、話はどんぶらこに戻るのだが、流れてきた大きな桃は、既に生命を宿している。後に桃太郎と名付けられる新たな命は、桃から栄養を吸収しながら流れてきた。どんぶらこ、と。
桃の栄養は、女性に必要なものがバランスよく含まれている。お通じに良いペクチンや、むくみを解消するカリウム、老化防止のカテキンや、貧血、冷え性対策としての鉄分、マグネシウムが含まれている。
どおりでおばあさんも、川から拾ったわけだ。得体の知れない大きな桃がどんぶらこ、と流れてきて、それを拾い上げる動機が分からなかった。これだけ女性にとって良いのだから、本能的に持って帰ってしまうわけだ。これからの夏バテ対策にも「良き!」とされている桃!山梨が名産地だ、覚えておくといい。
その桃から生まれた桃太郎。やはり、そんなこと現実に起こるとは思えないので、桃を食べて元気になったおじいさんとおばあさんが、盛りに盛ってできた子供説を強く主張したい。
昔は寿命が短かった。40歳でもおばあさんと言われたに違いない。桃を食べて栄養バランスがよくなったおばあさんは、ついに妊娠することができた。高齢出産のため危険はあったが、なんとか無事出産。これも全て桃を食べたおかげ。名前はやっぱり桃太郎になるはずだ。
子供ができることに対する描写を、ありとあらゆる方法で表現してきた日本人だ。赤子をコウノトリが運んできたように、この時も桃から生まれたと表現したに違いない。
そんな桃太郎が鬼退治ということでやってきたのが、鬼ヶ島だ。鬼ヶ島のモデルとなったのは、女木島とされている。高松市から20分ほどフェリーで行ったところにあるので、ぜひ行ってみてほしい。
鬼ヶ島 女木島 おにの館 公式ホームページ on Strikingly
そこら辺に鬼の像がおいてあったり
鬼ヶ島 女木島 おにの館 公式ホームページより
モアイ像があったりして
鬼ヶ島 女木島 おにの館 公式ホームページより
楽しめると思う。
夏は、海水浴場でもしちゃおう。
鬼ヶ島 女木島 おにの館 公式ホームページより
実はミャンマーにも、鬼ヶ島がある。
これを言いたいが為に長たらしく前振りを重ねてきた。僕が何かを話し始めると、途中で何が言いたいのかが分からなくなってしまうのが欠点だな。
ミャンマー語で、鬼はビルー、島はチュンという。モン州の州都であるモーラミャインの西に浮かぶ、ビルーチュンという島がある。まさに、鬼ヶ島である。これまでは、鬼ヶ島に行くには、船に乗って行く必要があった。桃太郎も、猿と犬と雉に引っ張ってもらいながら、船を浮かべて渡ったはずだ。だが、時は21世紀。時代は橋を作ったのだよ。ミャンマーの鬼ヶ島には、車で行くことが出来るようになっていた。
ビルーチュンには、昔、鬼のような怪物がいたという伝説がある。それからその名前がつけられた。今でこそ、手工業や農業で盛んな島だ。そんな島に、まだ悪しき怪物が巣食っているというのだ。そこで、ビルーチュンに巣食う悪を滅ぼさんと、民を救わんと、今、21世紀のピーチボーイズが立ち上がった!
次回へ続く
ハローワーク
海外で働くって、小さい頃には思ったこともなくて、冷静に考えたら、なんだかすごいことをやっているんじゃないかと思ってしまう。でもまた冷静に考えると、それも僕にとってはいつもの日常だし、案外そんなもんなんだろうな、とも思える。自分の居場所がそこにあって、助けてくれる人がいて、楽しく酒が飲める友達がいて、守りたい奴がいて。
あれ、これって幸せって奴なんじゃないの、って思いながらビールを飲んで、3桁も減った自分の口座残高を見て、今後の人生お先真っ暗であることを思い出す。幸せは長続きしない。欠陥だらけの部屋に、列をなして遊びに来るアリさんを一匹一匹潰している。いけない、いけない。こんな暗い気持ちではビジネスなんか出来ないし、ビジョンなんか描けない。今はできることをちゃんとやっていかないと。気分をリフレッシュさせよう。
ということで、逃げるようにしてピンウーリンにやってきた。
ピンウーリンという場所は、イギリス統治時代にもリゾート地として重宝された場所だ。こんな時期でも涼しく過ごしやすい。ミャンマーで一番暑い4月でも、夜は軽く布団が必要なほどだ。
いちご畑だってあるし、乳牛もいる。比較的物価は高いけど、それでもヤンゴンよりはマシ。涼しくて、緑がいっぱいで、少数民族の仲間もいて。
アウントゥーは、ウィンクとポロシャツが似合う男だ。シャン州のことは、彼を訪ねればだいたいなんとかしてくれる。簡単な英語が話せて、ちゃんとした中国語が理解できて、最近では僕から日本語も吸収するような、そんなおっちゃんだ。
仕事とともに生き、生きる中に仕事がある。仕事とは、決まった業務のことではない。いろんな人のために尽くし、仕えることだ。アウントゥーは、僕らがヤンゴンから訪ねてきても、喜んで迎えに来てくれる。案内してくれる。ご馳走してくれる。
「なぁアウントゥー、今日の予定なんだが」
「ちょっと待ってくれ、かず、電話だ。ハロー、こちらアウントゥー、要件をどうぞ!」
電話が鳴るのはしょっちゅうだ。いつも誰かの何かを助けている。いろんな仕事をしながら、楽しく生きているのだ、アウントゥーは。
アウントゥーはシャンの生まれで、パオ族とビルマ族とのハーフになる。彼の話すビルマ語は、地方訛りか民族語訛りのせいか、ビルマ人のそれよりもはるかに聞き取りやすい。ビルマ人の使うビルマ語は、かなり崩れた形や音をしているので、なかなか聞き取りの難易度が高い。地方の人のビルマ語を聞く方が、ビルマ語学習者にとっては、はるかに負担が少なそうだ。
アウントゥーは、ピンウーリンに土地を買った。全部で510エーカーの広さになる。なかなかに広い土地だ。
1エーカーは、4046.9㎡だから、510エーカーともなれば、2,063,919㎡の広さにも及ぶ。
いまいちピンとこないので、東京ドーム(46,755㎡)で表すと、およそ44個分に相当する。
…あんまり、東京ドームの大きさと言ってもピンとこないので、東京ディズニーランドで表すと、ちょうど4個分になる。
そう、東京ディズニーランドが4個も収容されてしまうような土地を購入したというのだ。えっ、アウントゥー、ちょっとお金持ちすぎじゃない?僕の口座、3桁くらい増やしてもらえませんか?一緒にシンデレラ城建てませんか?
アウントゥーは、この土地で、質の高い農業生産をしていくことに決めた。仲の良いリス族や、現地の仲間たちとやっていくのだ。土地を殺す化学肥料・農薬大量消費のミャンマーの現在の農業から、脱却するのだ。
「かず、この土地は、俺たちの土地だ。俺たちには、かず、お前も入ってる。ここで、やりたいことをやろう。植えたいものを植えよう。生きたいように生きよう」
「アウントゥー…!」
「かずも、仲間だ!」
「ありがとうは言わないぞ。ありがとうは、言うだけなら子供でも言える。大人になった僕らは、態度で示すから。ありがとうは言わないぞ」
「ハロー、こちらアウントゥー、要件をどうぞ」
「聞いて!!」
ヒップホップホットポット
かんかん照りの毎日で仕事の進度はアンダンテ、やる気を奪われだんだん手につかないまま次第に嫌んなっていく。たまにやって来る不安感で押しつぶされそうになる手前まで。そういう気持ちを話せるくらいの友達と最近仲良くしてます、なんて。
地方は地方で四方八方へ試行錯誤、昨日昨今の話じゃないけど、五月はこれからほとんど平日ヤンゴン、週末は移動を繰り返す模様。田舎に知らないところなし。イラワジ川から西日が落つのを気長に見渡す男たち。質素なご馳走たちを見境なしにいただき、日替わり労わり至れり尽くせりに忍びなし。心なしか若者の少なさに気づき、異常な事情を素人ながらに知ろうと、机上の空論を捨てて事実を見てみようとする。
少数民族の若者は隣国に移り働く。しんどくなっても気が遠くなるほど沈黙を破ることなくただ唯々諾々と働く。ただ泣く泣くやるせなくなるけど、家族の元には戻れない約束。それでも家族のために働き貯金し数ヶ月に一度の送金。自分はコーヒー一杯も我慢し、消費しないように。納期から逃避したいが、常軌を逸した陽気な臓器ブローカーや法に怯える今日日。可哀想に忘れた頃にやってくる取り立てエージェントたちへのプレゼントも用意せんととまた浪費。
これも国境が陸続きで越境の手続きが楽な環境が原因だが、本当はもっともっと自国での経済が安定すればそう地獄を経験せずに済むのだろう。何ができるかなど傲慢なことはよう言わんが少なくとも相談には乗らんとな。
年の離れた兄弟のようなミョーさんは冗談ばかり言う。友達から紹介された教会の牧師で、招待された町会の納会では、将来の展望や渉外のレポートなど、本来はシリアスな状態にあるにもかかわらず、常に笑いを表題に混ぜ込み豪快に話す。
ミッチーナというカチン州の州都である町中にばっちーまま捨てられた麻薬や覚醒剤のゴミの山。依存してしまいがちだから辞められなくなるんだな。それ故にリハビリが必要で実用なのに、いつも無秩序なナイトクラブでの取引になるから。違法へのアクセスがしやすくあくせく働いて稼いだお金も止むを得ず、それでも無くせずにいる問題になすすべなく。
こうも悪戦苦闘するのは、核戦争ほどではないがやつれそう。迷走する政府に傾倒することなかれ、百年後まで忘れんぞう、と恨み嫉むこともなかれ。どのような展望で臨むのかの検討をまずせんと、課題は無くせんぞ。発言等には気をつけよ。
Ah Yeah
鳥になれたら
水祭りが終わったミャンマーは、日常に戻りつつある。17日の新年を迎えた後、18日からは通常運転となった。長期休みを取っているお店や会社はあるようだが、今週徐々に日常に戻って行った。レストランの従業員がまだみんな戻ってこなくて、慌ただしい中ひたすらビールのおかわりを頼む。
ミャンマーではよくあることだが、長期休みを経た後は、だいたいの従業員が来なくなる。長期休みを使って田舎に戻って家族や友達と過ごした後、何故か連絡が途絶えるのだ。新規採用をした場合でも、やっぱり辞めさせてください、ということもある。本人からではなく、親や親戚から連絡をよこしたりする。一番ひどいなと思ったのは、自分1人では辞めづらいから、他の従業員に根も葉もない噂を流して巻き込んで辞めていく人だ。
一方で、しばらくしたら、何も悪いことなどなかったように、ケロッとした顔で戻ってくることもある。「結婚して子供が生まれたので、またここで働かせてください。あ、でも、生活費がないので給料前払いでお願いできますか。できれば3ヶ月分で。すみません」「子供ができて、その出産のためにかかる病院の費用がないから、ちょっと助けてくれませんか。給料前払いで後は天引きしてもらって構いません。すみません」などと、どの口が言えるのか、と驚愕することがある。ちなみに、このお金は戻って来なかった、というか、お金を渡した後、案の定、目の前から消え失せた。呆れて怒りもせず、涙も出なかった。なんでこんな奴らに結婚相手がいて、善良な僕には見つからないんだろうか。そう考えると涙が出てきた。
基本的には、ミャンマー人と日本人の価値観の違いとしてあるのは、優先順位の違いなんだろうな、と認識している。ミャンマー人にとって、一番大切なのは、家族だ。親や子供、親戚が一番大切。その人たちを裏切らなければ、基本的には何をしてもいいんだ、くらい思っているんじゃないかと思っている。
会社というのは、あくまで自分の家族の食い扶持を確保するための手段でしかなく、例え会社を裏切ってでも、家族を守るためなら仕方ないとして、お金をだまし取っていく。または、自分の責任など放棄して家族と一緒にいることを選択する。
経営者側からすれば、相当きついことだけど、会社に縛られすぎないでいられる、という面ではうらやましいな、と思う。金をだまし取ったりするのは良くないことだけど、辛くなったら思いつめる前にサッと辞められてしまうそのフットワークは、正直うらやましい。
会社に縛り付けられすぎて自分の生活の周りが疎かになってしまう日本人だっている。セクハラやパワハラを受けても言い出しにくい空気もさることながら、簡単には辞めます、と言えずに嫌なことを貯めていく人だっている。
日本にいて会社員として働いて、かつミャンマーで経営者として働いていて感じるのは、どちらも良くないな、ってことだ。いい按配で働くことって出来ないもんだろうか。個人のマインドもそうだし、会社や社会の風土もあるんだろう。
従業員と経営者のどちらもが楽しく幸せにいられるには、どういうアクションが、どういう制度があればいいのか。そういうことを考えながら、ミャンマーの新年を過ごした。
そういえば、3月から独立してミャンマーの会社の経営者をしている。ビジネスを自分で作り上げて、社員を採用して、仕組みを作っていくことはすごく難しいけど、すごくやりがいがあるし、サポートしてくれる人の力もあって充実している。
自分の好きな時に自分で選択ができるのは楽だ。カレーをぐつぐつ煮込みながら、メールの返信をしたりできるのが、被雇用者とは違うところだな、とあれこれ考えていたら、おいしいカレーはできたけどメールの返信はまだできていない。
独立していきなりだけど、2社の経営をしている。
メインは、流通の会社だ。これまで培ったネットワークを存分に活かしていくつもりだ。特に、農民が抱えている課題を解決することを目的としてネットワークを構築し、いい商品を流通させていく。
名前は、「アルバトロス」にした。日本ではアホウドリと呼ばれてバカにされる鳥をあえて選んだ。アホウドリは、飛び上がるまでは時間がかかって、子供でも捕まえられるほどノロマだ。だけど、一度飛び上がると、そのグラインド能力で、どこまでも飛んでいける。その美しさから、オキノタユウ(沖の太夫)と呼ぶ地域もあるし、その飛行距離から、ゴルフのパーよりも3打少ないスコアを出すことを、アルバトロスと呼んでいる。
流通ネットワークを遠くまで、ソリューションをもっと遠くまで、という意味でアルバトロスを採用した。我ながらいい名前をつけたな、と満足している。
もう一つは、「イーグル」だ。
こちらでは、今後はスタディツアーを企画、運営していく会社にしようと思っている。なんとなく、これって良くないよな、っと思われている問題を、社会問題として、もっと掘り下げていくためのツアーだ。同時に、ミャンマーで起きている問題を発信できる会社だ。ワシのように、社会を上から巡回して問題を見つけて、それをもっとわかりやすく人に伝えるようにする。
なんとなくこれって問題だよね、って思ってることを、実際の現場への訪問を通じて、構造的に理解していき、対応策を提案していけるようにする。ミャンマー人のインターン生たちを巻き込んで、まずはヤンゴンにある様々な問題をピックアップしてもらい、一つずつ掘り下げている。
ミャンマー人と日本人のインターン生も増えてきていて、だんだんとできる範囲が増えていく。まだまだ社会全体を見れる目もないし、飛び立つにはまだまだ助走が必要だけど、長く助走を取った方がより遠くに飛べるって誰かが歌っていたので、体力をつけながら、自分の目指すところを目指して走り続けようと思う。
小さなてのひら
サクラが咲き、メジロがさえずり、子供たちが入学式に心を踊らせる4月は、新しい学期の始まりを知らせる。多くの人が「始まり」のイメージを持つこの季節。
ミャンマーでも、パダウと呼ばれる黄色の花が咲き、オッオーがさえずり、国民が水かけ祭りに心を踊らせる4月は、新しい年の始まりを知らせる。ニューイヤーの準備に、町中がソワソワし始めている。
先週から「マンダッ(Mandat)」と呼ばれる台座の建設が道路のそばに作られ始めた。1週間後の水祭りイベントでは、この台座の上からホースで水が放水され、途中でポーズすることなく坊主にも外国人にも水かけフルコースをお見舞いする様子。
去年は地方のタンダウンジーというところで、ほんとに簡単に日本語の授業をするボランティアを2日間だけどトライした。50人の子供たちと将来の夢の語りあい。これから何ができるか、何がしたいか、何をして生きていたいか。
一昨年楽しんだのは、隣の国のタイのソンクラーン。セクシーでキュートなタイ人の若い女の子に目が眩んだが、むさ苦しい男たちに囲まれてしまってビールに飲まれて夜に揉まれて。それはそれで楽しくて、居心地が良くて。
その前はヤンゴン、その前もヤンゴンだった。気温は40度近くになり、暑さは尋常ではない。さらに、町の熱い活気はなおも一層相まって、街は賑わい、狂い、走り、踊り、騒ぎ、呻き、笑う。
毎年この時期はミャンマーにいて(タイにもいたけど)、この水かけ祭りを楽しんでいる。ミャンマーの言葉で、ティンジャン(現地発音はダジャン)と言う。もともとの意味としては、太陽が魚座から牡羊座に移動することを意味しているそうだ。魚座生まれの僕の元にいた太陽が去っていく。ティンジャンの間は、日本の年末年始のように、公共施設や公共機関は休みを取り、新しい季節が来る喜びを皆で感じているのだ。
「かずは、日本に帰らないの?」
ザーニーは、携帯電話をいじりながら呟いた。
「うん、こっちにいるよ」
「ミャンマーにいたって、何にもすることないでしょ」
「そうだな、ザーニーは?」
「俺は、家族と一緒にゆっくりしてるよ。パアンは暑いし。外に出るのも嫌になるし」
「だよな」
部屋のカーテンを開けて、朝日をめいっぱい部屋に取り込む。揚げ物売りのおばちゃんが売り歩いたり、尼さんが托鉢していたり、黒ブチ柄の犬が走り回る姿を、窓から見下ろす。うちの部屋からは、シュエダゴンパゴダを見ることができる。遠くの方で、いつものように金色に輝いている。
「ゆっくりこれからのことを考えるよ」
僕は、ゆっくりと沸かしていたお湯で作ったコーヒーを静かに飲んだ。
「そういえば、ソープがヤンゴンにできたらしいな」
僕は、壮大にコーヒーを吹き出した。
「何いってんの!」
「いやあ、ソープだって。オーナーは誰か知らないけど。中国人かシンガポール人か」
せっかくいい雰囲気に浸っていたのに、朝からなにを繰り出してくれているんだ。
「なんで知ってんのよ」
「知り合いが言っててさ。暇なら行ってみればいいじゃん」
「いや、いいよ、高いんでしょ」
「2万円とか3万円とか」
「ほら!」
健全な人にはわからないかもしれないが、ソープというのは風俗の一種で、本番ありの箱型風俗店だ。本番ありとは言っているけれど、日本では法律上は禁止されているため、暗黙の了解というやつで片付けられている。名目上は、特殊浴場という、いわゆるお風呂屋さん扱いだ。ミャンマーでは、これまでこういったお風呂屋さんというのがなかったため、ソープというものはなかった。
基本的には、ミャンマーの風俗店は、置屋、マッサージ屋、ナイトクラブ、デリヘルタクシー、KTV(カラオケ)、の5種類の形態を取っている。むかし、コンサルサービスをやっていた際に、ミャンマーの風俗状況を調べて欲しい、という依頼をやったことがあって、やけに詳しくなった。
ライトなところで言えば、カラオケ、通称KTVだ。日本のキャバクラとかをイメージしてもらえればわかりやすい。入店すれば、ボーイさんが女の子を数人連れてきてくれて、部屋の前に一列に並ばせる。その中から、気に入った女の子がいれば指名して、自分の横に座ってもらうのだ。歌を歌ったり、女の子とイチャイチャしたりする。日本語や英語を話せる女の子は多くないので、ミャンマー語があまり得意でない人には、少し物足りないかもしれない。
置屋って、あんまり今は聞かないかもしれないけど、ピンサロの本番あり、みたいなところだ。2畳くらいの狭い部屋の中で、汚い布団やシーツの上で、選んだ女の子と本番をする、だけの部屋。基本的にはマッサージ屋として登録しているけれど、実態とかけ離れすぎているので、摘発の対象になりやすい。なので、対策として、すぐに違う場所を探しては開店している。
マッサージ屋なんかは、一通りマッサージが終わったあとに、笑顔で「スペシャルマッサージ?ハンドジョブ?」とか聞いてくる。全身にオイルを塗り込められるんだけど、チープなマッサージ屋とかに行くと、股間を避けるどころか、しきりに触ってくる。
夜遅くに、ゲストをホテルにお連れしたあとに、その辺でタクシーを拾ったりすると遭遇するのが、このデリヘルタクシーだ。「HEY!LADY?」と話しかけられるので、すぐにわかる。最近はだいぶ減ったけど、この間まだダウンタウンの近くで遭遇した。運転手のにいちゃんが、女の子たちのブローカーみたいなことをやっていて、電話一本入れれば、好みの女の子を3人くらい連れて来てくれる、というやつだ。
そして皆が大好き、ナイトクラブ。重低音とピコピコ音楽、交差するカラーライトに、きついタバコの臭い。お店に入ると、女の子たちがわらわらと寄ってくる。中央でダンスを踊る女の子たちと、テーブル近くに寄ってくる女の子たち。日本語や英語や中国語の簡単な挨拶を使いこなす女の子たちがたくさんいる。気に入った子がいれば、その子をホテルまでお持ち帰りする、というのがここのスタイルだ。
「はい、お兄さん、どこから来たの?」
「日本から」
「え!?ミャンマー人じゃないの!?」
といういつもの件りをやったあとに、女の子たちと会話を楽しむ。ミャンマー語ができる、というだけで安心してくれるのか、すごくペラペラと喋るから、いろいろな情報が聞けて楽しい。
大音量で流れるクラブミュージックに遮られてなかなか聞き取れないのだが、その分距離が縮まっていい。
「なにをしてるの?」
「ミャンマーの、いろんな問題を調査する仕事をやっているんだ」
「問題って?」
「社会問題ってわかる?目に見えないけど、確かに社会にある、解決しなきゃいけない問題のこと」
「わかんない」
「ゴミ問題とか、目に見えるでしょ」
「見える!ちょー汚いよね!臭いし!」
「そう、目に見える問題ってわかりやすいんだけどさ、教育の問題とかって、ややこしいでしょ」
「わかんない」
こんな感じで女の子と話している。実際はもっとたどたどしいけど、こうやって女の子たちとコミュニケーションを重ねて、何度も会って、いろんな情報を聞いてきた。
田舎から出てきて、お金を稼ぐ手段を知らなくて、いろんな噂を聞いて、こうしてクラブにやってきて。それで体を売って、お金を稼いで、両親に仕送りして、また繰り返して。簡単に稼ぐことができるから、それに依存していく。他の地味な仕事を一生懸命やっても、一晩で簡単に稼げてしまう。ただ、それも30代になると、きつくなる。体力は続かないし、自分の体型や見た目が変わりやすくなってしまう。自分を綺麗に維持し続けないと、指名してくれる人もいなくなる。それで、コンドームもつけずにサービスをしてあげて高いお金をもらおうとする。そして、それが原因で性病になる。HIVに感染する。仕事ができなくなる。
別にヤンゴンだけで起きていることではない。ミャンマーの田舎でもこういうことが起こっているし、他の国でも起こっている。
この売春ビジネスを完全に否定をするわけではないし、たぶん無くなることはないと思っているけれども、アンハッピーなことがないようにはしたいと思う。
地方の置屋みたいなところに案内してもらったこともあった。
バガンという、ミャンマーの観光名所の一つの古都から車で30分ほど行ったところにある小さな街では、観光客としてやってきたミャンマー人や外国人を対象にした青空置屋がある。
「ここがそうらしい」
「うわ、こんなところがあるのか」
メインの通りからは見えない場所に、古い小屋があった。不衛生の塊とも言っていいような環境で、そこで呼吸をすることすらも辛かった。
「おい、これ、外じゃないか?」
パーティションで区切られてはいたが、紛れもない外だった。青空置屋だった。
そこには、見た目があまりに幼すぎる女の子がいた。その子を指名して、少し話をした。
「こんにちは、今日は別に何もしなくていいから大丈夫よ、あ、お金は払うから」
「?」
「あ、日本人です」
「!?」
「初めてで戸惑っていると思うけど、ちょっとお喋りがしたくて。ほら、ミャンマー語!」
「すごい!どこで勉強したの?」
「居酒屋だよ、居酒屋。毎日通っていたらいろいろ覚えてさ」
「すごいね!ミャンマーは長いの?」
「今4年くらいかな」
「そんなにいるんだ!へぇー!すごい!」
最初は暗いかな、って思っていたけど、話したら明るい子だった。夕日が沈んだ頃だったので、あまり顔はよく見えないが、可愛らしい感じだった。みんながバガンの沈む夕日を見て感慨に耽る中、僕は置屋で女の子と喋るのだった。
「名前はなんていうの?」
「わたし、チョーチョー」
「チョーチョーか、かわいい名前!何歳になるの?」
「うん、18歳!」
いや、そんな見た目はしていない。それにしては幼すぎるじゃないか。
「本当は?」
「ん?18歳!」
「いや、違うんじゃない?」
「うん、言わないでよ、15歳」
それはダメだろ!!
「え、それはダメなんじゃないの?」
「うん、ダメ。友達にもいる。14歳とか」
それはダメだろ!!!
事情を聞いてみると、村が貧乏で仕事がなく、また少し足が悪いことから、家の手伝いもできず。こうして体を売ることを、家族から言われて働かされているそうだ。そんな悲しいことがありますか。こうやって体を売れば、日本円でいうと月々1万円くらい稼げるそうだ。少なすぎじゃないですか。その小さなてのひらで掴んできたものは、あまりに汚く、あまりに空しい。
こういう田舎から、ヤンゴンにやってきて体を売っている女の子も結構いるそうだ。住むところがないから、何人かでシェアルームをして、夜はみんなでクラブで男を待つ。稼げる女の子が、たまに稼げない女の子にお金を貸してあげたりもしている。病気になったりもして、病院に通う子もいる。
何ができるわけではないけど、こんなことをしなくても、ちゃんと稼げて、楽しく生きていけるような仕事を作っていけたらいいな。
詠み人知らず
日本人のあだ名の付け方は、本当に多種多様だな、と実感する。ぐっさんとか、やまさんとか、元の名前を想像するのも難しくない。ブタゴリラなんてあだ名を呼ばせていたカオルくんもいて、非常にキテレツだなぁと思う。ジャイアンなんて本当にすごい。
僕も、小学校の頃は、「カッシー」なんて言われていた。引っ越したばっかの頃に、仲良く登下校していた友達につけてもらったんだけど、マリオに出てくるヨッシーが好きだっただけで、「かず」と合わせてカッシーになって、それが当たり前になっていくの本当にすごいなと思った。同時に、樫本くんに申し訳ないと思った。
高校に上がってからは、「ちゅーや」に変わった。苗字から連想されてしまったそのあだ名は、僕は割と気に入っている。ちゅーやは、大学で「ちゅーやん」になってしまった。すごく間抜けな響きになってしまったけれども、呼んでくれる人がいるから、それはそれでいいことにしている。
ちゅーやの元になった、というかそのものだけど、中原中也から拝借している。イケメン俳人として割と人気なので、そんなに悪い気はしていない。中也は、山口県出身の俳人で、東京でフランス語を勉強していたこともある。僕自身も、出身地と苗字と出身高校と専門の学問が同じであることから、妙に親近感がある。友達の家の前にある中原中也の墓を見るたびに、旧友の前に立っているような錯覚に陥る。
ちゅーやん、と呼んでくれる友達、みったんの誕生日があったから、日本滞在中に祝いに行ってきた。多分1年と半年ぶりくらい。先週ぶりくらいに会ったような感じで迎えてくれる安心感が心地よい。
東京の三越前にあるカフェで、サニサニーピクニックという所がある。ここで知り合った友達を呼んで誕生日パーティをするということで、お店の閉店時間にやってきた。
アフロのが迎えてくれるそのカフェは、ちょっと普通とは違って、謎々がいろんなところに散りばめられていて、居心地のいいコミュニティスペースのようにもなっている。アフロ店長のふーちゃんが考えているようで、ここの紹介はまた今度したい。
時間になっていろんな友達がやってきた。僕は皆さま初めまして状態だったうえ、ミャンマーから来ました、みたいな奇抜な奴で、だいぶ浮いてた気がする。それでも、ふーちゃんやみったんの社交性のおかげで、なんとか馴染めた、気がする。
ボードゲームやお絵かきゲームで楽しませてもらった。中でも盛り上がったのが、「詠み人知らず」というゲームだ。
詠む、という書き方をすると想像しやすいけど、川柳とか俳句を作っていくゲームだ。詠み人知らず、つまり、誰が作ったのかわからない、という意味が込められている。
一人一人に白紙のカードが渡されて、そこに川柳の5・7・5を書いていくわけだ。詠み人知らずにおいては、「一人一字」ずつ書いてランダムに回していく。前の人の一字を受けて、それっぽいのを書くも良し、全く意味のわからない文字を書くも良し。協調性が高ければいい感じの川柳になるだろうし、いたずら心が過ぎれば、解読不能の川柳にもなる。ただ、川柳なので、解釈が必要になる。意味不明な十七文字でも、解釈次第では奥深い詠みものになることもある。もともと少ない言葉で、深く大きな印象を抱かせるという、川柳の性質を利用した、非常にいいゲームだ。
「え?え?何書いたらいいの?まる?」
よしおかは、イマイチまだルールを把握していないみたいだった。丸は書かなくていい。一文字目だけ書くんだ。
「なんでもいいから一文字目書いて。あ、でもいいし、え、でもいい。そのあと、続けて一文字ずつ書いていくから。ふ、とかね。そしたら、あ、ふ、ろ、みたいに繋がるし、そうしなくてもいい。とにかく、みんなで一文字ずつ書いて繋げていくの」
ふーちゃんが分かりやすく例を出してくれたけど、よしおかはまだ分かっていないようだ。
ちなみに、人数は、8人くらいいるといい感じになるし、その分だけ面白い句ができる。この日は、11人でやった。
まず最初に自分が一文字目を書く。一文字目は大事だ。「ぽ」とかから始めたりすると、続けにくい。「ポケモン」とか「ポリバケツ」とか「ポスター」とか、あれ、なんだ、意外となんでもあるな。それに、次の人がどういう方向性にするかでいくらでも化ける。
じゃあ、自分の名前の「な」から始めよう。カードの右上に、綺麗に「な」と書いた。みんなが同じように一文字目を書き終えたら、カードをシャッフルさせる。
次は何が来るかな。ランダムにカードを取り出すと、そこには「す」とあった。いいね。「すき」とか「すし」とか二文字で方向性を決めてもいいし、「すい」とか「すみ」とかで三文字目を泳がせたりできる。完成形が楽しみだ。僕は「き」と書いてカードを折りたたんだ。
よしおかが、ルールをまだ理解していないでワーワー騒いでいる。
「いいから一文字書けよ」みんなが一斉に突っ込む。今回はツッコミしなくても良さそうだ。
次のカードには、「お」「っ」と書かれていた。これはどう考えても「ぱ」でいくだろう。むしろ「ぱ」以外の選択はありえない。こんなにも「ぱ」を書きたくなる日はこれまでも、そしてこの先もないだろう。食い気味に「ぱ」を書いて、カードを折りたたんだ。
こうやってみんなで句を作っていくわけだ。めちゃくちゃ楽しみだ。みんな何を書くんだろう。「おっぱじめる」なんていうサブいことはしないでもらいたい。「おっぱ」と来たら、次はもうその白い歯を見せびらかせて欲しい。
しばらくしたら、一文字目と二文字目が離れているカードが当たった。
これ、よしおかだろ。なんで続けて書いてないんだ。理解力がなさ過ぎてさすがに笑えてくる。しかも、説明の例で使われた「あふろ」の「ろ」の字だ。アフロに引っ張られ過ぎてる。
そのせいで、意味の分からない文章になっている。これはダメだ。育たない。方向性を変えよう。最初の五文字は無視だ。残り十二文字で意味を作ろう。前の人が「は」と書いてくれている。「は」から始まる言葉か。「はっぴー」とかになればいいか。僕は小さく「っ」を並べた。
次に来たカードは、僕が最初に「な」と書いたカードで、ずいぶん育っていた。
「なまがいい」「まじ」
ど下ネタコースだろ。これは、育てたい。育てたいぞ。みんな、一致団結して欲しい。進むべき方向を、みんなで向いて欲しい。日本の政治のように、国家のあり方のように、進むべき方向を、みんなで向いて欲しい。過程や方法は様々あって然るべきだけど、方向性はこっちで行って欲しい。
僕は「で」と記してカードを折りたたんだ。
「そうか、そういうことか!」よしおかの理解を告げる声が聞こえたけど、無視をした。
いろいろとカードが回ってきて、それぞれに文字を連ねていった。意味のありそうな句や、訳のわからない句もあったけど、なんとか十七周して、完成した。
最後に、一枚ずつランダムに引いて、その句をみんなの前で声に出して読む。更に、解釈をそこに吹き込んでいく。ど下ネタだけは読みたくないと心で祈りながら、一枚引いた。こういうときの、神様の気まぐれは本当に腹が立つ。ど下ネタだった。
「なまがいい
まじでほんとに
きもちよし」
みんなが一致団結した瞬間だった。きもちいい、とかじゃなくて、きもちよし、という奥ゆかしさを含んだいい表現だ。「よ」を書いて「し」を重ねたファインプレーに拍手を送りたい!!
僕は何を言っているんでしょうか。
しかし、こんな、声に出して読みたくない日本語はない。みんなが一つ一つ完成した句を読んで行く中、震え上がっていた。
そういえば、途中で方向転換した句はどうなったのだろう。みったんの読む番が来た。
「◯◯◯◯◯ はっぴーばーすで いみきてぃ」
奇跡が起きた。最初の五文字は忘れたけど、その後のみんなの愛に、僕は感動した。そしてそれをみったんに読ませる神様のいたずら心に、僕はスタンディングオベーションを送りたい。一人で。
ちなみに、「おっぱ」で解き放ったカードは、ちゃんと「おっぱい」になっていた。